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東京地方裁判所 昭和29年(ワ)6073号 判決

原告 有田盛次郎

被告 世界長ゴム株式会社

主文

被告株式会社は原告に対し、百七十八万四千二百五十円及びこれに対する昭和二十八年五月十六日から支払ずみに至る迄、年五分の金員の支払をせよ。

訴訟費用は被告株式会社の負担とする。

この判決は仮に執行することができる。

事実

原告訴訟代理人は主文第一、二項同旨の判決及び仮執行の宣言を求める旨申立て、その請求の原因として

原告は元福岡県八幡市に於て、先代以来靴の販売修理業を営んできたものであるが、昭和十七年六月頃皮革製品の統制により右営業を廃止し、終戦後は、その所有する福岡県八幡市大蔵字勝田千二百二十番地の一、山林二反三畝四歩同所千二百二十一番地の一、山林二反二畝四歩(実測坪数約五千五百坪以下係争山林という)が開墾されて宅地となつているところで、農業に従事していた。然し再び靴の販売修理業を再開すべく、その事業資金を得る為、唯一の財産である係争山林を売却することを決意し、昭和二十六年四月上旬、訴外中山寅雄の斡旋により、被告株式会社九州支店長高山久弥(以下高山久弥とは特にそうでないことを示さない限り、この資格に於ける同人をいう)と交渉し、被告株式会社は代金二百六十四万円でこれを買受ける話合が略成立したが、原告は同年四月二十日同支店長代理人近藤芳雄を現場に伴い、被告株式会社の要求に従い、売買予約に因る所有権移転請求権保全の仮登記をなすことを承諾し、近藤芳雄に仮登記申請に必要な書類を交付したところ、高山久弥は同人と原告との間に売買予約も成立しないのに、原告の承諾を得ないで、即日福岡法務局八幡出張所に於て、高山久弥個人の為に同年同月同日附売買予約を原因とする所有権移転請求権保全の仮登記を経た。原告はそれを知らなかつたのであるが、同日原告が福岡市内の被告株式会社九州支店に戻つて来ると、高山久弥は原告に対し「係争山林の代金は百七十八万四千二百五十円にしたい。その代り、原告が靴の販売修理業を開始した暁には、業界に於て特殊な権利とされている被告株式会社製造の二号品の直売権を原告に付与する」と申出でた。原告は、係争山林の当時の価格は三百万円位であつたが、被告株式会社が右の権利を付与するならば、原告がそれによつて将来受ける利益は莫大なものであると考え、高山久弥の右申出を承諾し、同人との間に次のような売買契約を結んだ。

(一)  被告株式会社は原告から係争山林を代金百七十八万四千二百五十円で買受け、その支払の為、訴外中峯化学工業株式会社が同年一月十六日被告株式会社にあてて振出した、金額百七十八万四千二百五十円、満期同年三月三十一日振出地及び支払地いずれも福岡市、支払場所株式会社帝国銀行福岡支店なる約束手形(以下係争約束手形という)金債権を譲渡する。

(二)  原告は被告株式会社の為中峯化学工業株式会社が被告株式会社にあてて振出した

(1)  金額二十五万六百五十円、満期同年五月十五日

(2)  金額二十三万五千二百円、満期同年五月十八日

(3)  金額三十七万七百五十円、満期同年六月十日

その他の手形要件は係争約束手形と同じである約束手形金の取立に協力し、原告はそれを取立てたとき被告株式会社からその金額の二割を報酬として支払をうける。

更に原告は翌二十一日、被告株式会社九州支店事務所に於て、高山久弥との間にあらためて右契約を確認する趣旨の契約を結び、同人から係争約束手形一通の交付をうけ、同人は被告株式会社が原告に対し係争約束手形に裏書すべきことを約した。

原告は、被告株式会社がゴム製品製造販売業者として、斯界に著名な会社であることに信頼し、爾来中峯化学工業株式会社の財産調査同株式会社に対する債権取立の為水崎幸蔵弁護士に対する訴訟手続の依頼、同株式会社に対する交渉等に、私財を投じて献身的に努力した結果、同年四月二十五日同株式会社から代金四十四万九千四百円に相当する地下足袋ズック等を被告株式会社の為に回収することに成功した。

なお原告は同年同月二十四日、被告株式会社の取締役総務部長岡峯秀男が福岡市に来たとき、同人から「自分は被告株式会社の社長を代理して九州に来たが、係争山林の代金の支払はもとより、将来原告には十分の便益を与えるから、係争約束手形金の取立については十分協力して貰いたい」と言われ、同人は、原告が係争約束手形金の取立を委任した水崎幸蔵弁護士に対しても、協力を依頼し、かつ係争山林の現場を見分した。

そこで原告は翌二十五日、高山久弥に対し、被告株式会社の係争約束手形に対する裏書を要求したところ、同人は原告に対し「被告株式会社は既に中峯化学工業株式会社から係争約束手形の書換手形の振出をうけ、それは被告株式会社本店に裏書の為送付してあるから、本店から返送あり次第、それを原告に交付する。それ故係争約束手形は無効に帰したものだから、被告株式会社に返してくれ」と言つた。

原告は被告株式会社を信頼し、少しも疑わなかつたので、係争約束手形を同人に交付した。

この間原告は被告株式会社の為に前記三通の約束手形金の取立に成功した。

しかるに高山久弥は原告に対し、前記三通の約束手形金取立の報酬八万九千九百二十円の支払及び係争約束手形の書換手形の交付をしないのみか、係争山林の売買については、一切被告株式会社の大阪本店に於て処理することになつたから、九州支店に於ては原告と折衝することができなくなつたと放言するに至つた。

その後原告が調査したところによれば、被告株式会社が同年四月二十一日原告に係争約束手形を交付した時には、被告株式会社は中峯化学工業株式会社からその手形金の内百四万円に相当する商品の返戻をうけ、残金七十四万四千二百五十円については、同株式会社が係争約束手形振出後被告株式会社にあてて、振出した、金額を七十四万四千二百五十円、満期を同年四月二十日とする書替手形(以下係争書替手形という)の振出により決済されたことが判明したが、高山久弥は前記売買契約成立の際、原告に対し係争約束手形が右の理由により失効していることを秘して、これを交付したものである。原告はその故に中峯化学工業株式会社から係争約束手形金を取立てることができなかつた。

依つて被告株式会社は、原告に対し右代金を支払うべき義務があつたに拘らず、全然これを払わず、先に原告が高山久弥に交付した原告の印鑑証明書白紙委任状、登記済証等を使用して、同年四月二十四日自己の為係争山林につき同年同月二十三日附売買を原因とする所有権移転登記を経由し、更に同年十月三十日訴外日本商事株式会社の為、同年同月同日附売買を原因とする所有権移転登記を経由した。

高山久弥は、被告株式会社は原告から係争山林を代金百万円で買受け、しかもその支払に代えて既に不渡となつていた係争約束手形債権を原告に譲渡したと主張するのであるが、同人は原告に対し係争約束手形につき書換手形が発行されていることを秘し、原告はそれを知らずに右売買契約を結んだものであるから、前記売買契約は高山久弥の詐欺に因る意思表示として、原告に於てこれを取消し得る筋合であるが仮に原告がそれを取消したとしても、善意の第三者である日本商事株式会社に対し、その無効を主張することができない(日本商事株式会社が果して善意であるかは必ずしも明ではないが、悪意の立証が困難であるから、原告は悪意を主張しない)。従つて原告は同株式会社に対して係争山林の返還を請求し得ない結果、これに対する所有権を喪失するに至つた。被告株式会社が日本商事株式会社に係争山林を売却した昭和二十六年七月三十日当時に於けるその価格は、少くとも三百万円は下らないから原告は被告株式会社の売却に因り、これと同額の損失を蒙つた。そして右損害は被告株式会社が右詐欺に因り原告に加えた損害、又は被告株式会社の被用者である高山久弥が、その詐欺に因り、被告株式会社の事業の執行につき、原告に加えた損害ということができる。よつて原告は被告株式会社に対し、右損害金、又は高山久弥の使用者たる被告株式会社に対し、被用者高山久弥が原告に加えた右損害金の内、前記代金百七十八万四千二百五十円に相当する損害金、及びこれに対する原告の代理人檜山雄護等が被告株式会社に対し、右損害金の支払を請求した、昭和二十八年五月十四日附書留内容証明郵便が被告株式会社に到達した日の翌日である、同年五月十六日から支払ずみに至る迄、民法所定の年五分の遅延損害金の支払を求める。

原告は右請求と選択的に被告株式会社に対し、係争山林の前記売買代金百七十八万四千二百五十円、及びこれに対する右昭和二十八年五月十六日から支払ずみに至る迄、商法所定の利率の範囲内である年五分の遅延損害金の支払を求める為本訴請求に及んだ。

被告株式会社の抗弁について、原告が昭和二十六年五月二十三日被告株式会社との間に、その主張のような売買契約を結び、(5) 項について(い)(ろ)(は)のような支払に関する合意が成立し、その支払をうけたことは認めるけれども、(2) の約束手形は当時既に不渡となつていたし、(4) の貸金なるものは、本来被告株式会社の負担すべきものであつて、その金額につき当事者間に貸金契約が成立したものではない。なお、(ろ)の山林五畝十歩の山林一筆につき、被告株式会社から原告に対し所有権移転登記をなすべき旨の催告があり、原告がその手続費用を送付しないので、未だその所有権移転登記が完了していないことは認める。

再抗弁として、原告は昭和二十六年四月二十五日頃以降高山久弥に対し、係争約束手形と金額を同じくし、被告株式会社本店に裏書のため送付してあるという書換手形を原告に交付すること、原告が中峯化学工業株式会社から回収した地下足袋ズツク等の相当代金四十四万九千四百円を、係争山林の代金の一部支払として、取敢えず原告に対して支払うこと、或は右物件を原告への代金の一部支払にかえ引渡すこと、或は原告が取立に成功した前記三通の約束手形の報酬を支払うことを請求してきたところ、高山久弥は被告株式会社本店の指示ある迄原告の請求に応じられないと答えてきた。同人は同年四月二十九日頃、原告を福岡市内の料亭「山利」に招待し、同所に於て原告に対し「実は係争約束手形は原告に交付した当時に於て中峯化学工業株式会社からその手形金の一部の弁済をうけ、残額は七十四万四千二百五十円しかなかつたが、それについて同株式会社から書替手形を受取つている。同株式会社に対しては仮差押の手続をとるから、この書替手形によつて、その手続をとつてくれ。取立の費用や保証金は被告株式会社に於て負担する」といつて、係争書替手形一通を交付した。原告は翌三十日、福岡市内の司法書士本間嘉平をして、右書替手形債権に基き、中峯化学工業株式会社に対する電話加入権及び有体動産の仮差押申請書類を作成せしめ、高山久弥に対し、右書替手形の原告に対する裏書譲渡を求めたところ、同人はこれを拒絶した。その後原告は同人に対し、前記各請求を繰返したところ、同人は前記のように、係争山林については被告株式会社本店に対し交渉すべく、九州支店に於ては交渉に応じられないと拒絶するに至つた。

そこで原告は被告株式会社本店に交渉する外なしと決意し、かたがた中峯化学工業株式会社の代表者中峯伍伊知は東京都内に潜伏しているとの情報に接したので、同年五月九日高山久弥に対し、右の情報を伝え、同人から中峯伍伊知を捜索する為の上京費用として二万五千円の支払をうけた。その際同人は同人が先に原告に交付した、被告株式会社が中峯化学工業株式会社に対して、係争約束手形金の取立を原告に委任する旨の委任状を返還しなければ、右旅費を交付することはできぬというので、原告は已むなく同人にその委任状を返還した。

原告は翌十日、大阪市なる被告株式会社本店に於て社長奥野松吉に面会を求めたが、拒否され、前記総務部長岡峯秀男に面会したところ、同人は「係争山林の処理は全部九州支店長高山久弥に一任してあるから、同人と交渉されたい」と言つて交渉を拒絶した。そこで原告は上京し、中峯伍伊知を捜索したが、行方不明の為その目的を達し得なかつた。原告は福岡市への帰途、再び被告株式会社本店に立寄つたが、社長奥野松吉、総務部長岡峯秀男は不在を理由として面会を拒絶した。原告は同年五月十六七日頃福岡市に帰着し、高山久弥に対し前記の経過を報告し、再び係争山林の代金の支払を請求したところ、同人はこれを拒絶し、同年同月二十日以後はその所在を晦した。原告は契約成立の当初からその頃に至る迄、他の一切を放擲して、中峯化学工業株式会社に対する被告株式会社の債権の取立、隠匿物資の摘発等に努力したのみならず、被告株式会社に対する係争山林の代金の請求に寧日がなかつた為、生活は次第に窮迫し、家族の衣類等を入質して、辛うじて糊口を凌いで来たのであるが、同年同月下旬には一日コツペパン一個で露命をつないでいた状態であつて、その窮迫は言語に絶するものがあつた。そこで原告は被告株式会社の原告に対する前記不信行為を糺弾する為、同年同月二十二日、原被告間の係争山林売買に関する経緯をプラカードに記載し、これを前記九州支店に携行したところ、同支店社員松岡克己吉田忠弘は高山久弥は不在であるというので、原告は更に翌二十三日、右両名等と交渉したところ、両名は「支店長は不在であるから、取敢えず自分達で五万円を貴方に提供する。しかしこれに捺印しなければ、五万円を渡せない。」と言つて、原告に見せたものが、被告株式会社が抗弁として主張する契約を記載した契約書であつた。そこで原告は、それが事実に反したことを記載してあり、かつ、原告として承認できない条項を含むものであつたので、これに捺印することを拒んだところ、両名は異口同音に「自分等は九州支店の留守を預つているものであるから、とも角もこれに捺印して、この場を納めて貰いたい。これに捺印しても、貴方は今後高山久弥とどういう話もできる。そうしなければ自分達も困るし、五万円も渡せない」と言つた。当時原告は、妻、九才の長女、七才の二女、長男及び老母をかゝえ、その日の生活にも事を欠く状態にあつたので、右契約書に捺印しなければ、家族は路頭に迷うと考え、已むなく右契約書に捺印したものである。以上の事実からすれば

(1)  原告が右契約を結んだのは、被告株式会社が原告の窮迫軽率及び法律上の無智に乗じてなされたものである。そして被告株式会社が原告に対し交付した中峯化学工業株式会社振出の前記金額七十四万四千二百五十円の不渡約束手形を除いては、被告株式会社は原告に対し(3) の元利金十三万三千九百十円四十銭、(5) の(い)(ろ)(は)合計九万四千五百八十九円六十銭にすぎず、(4) の二万七千二百五十円は被告株式会社自身の負担すべきものであるから、被告株式会社は原告に対し以上合計二十二万八千五百円を支払つたにすぎない。これに反し、被告株式会社が右契約により原告から取得する係争山林は、時価三百万円を超えるものであるから、その財産的利益はその出捐に比して著しく権衡を失するものであつて、右契約は信義誠実の原則に照し無効である。

(2)  仮にそうでないとしても、右契約は、原告が真意を以て結んだものではなく、かつ被告株式会社は原告が真意に出でたものでないことを知つて結んだものであるから、民法第九十三条但書に照し無効である。

(3)  仮にそうでないとしても、原告は右契約によつては被告株式会社に対する係争山林の代金請求権を失うものでないと考えて、これを結んだものであるから、その法律行為の要素に錯誤があり、その点に於て無効である。

それ故、原告の被告株式会社に対する百七十八万四千二百五十円の代金債権、これと同額の損害賠償債権は、右売買契約の成立により何等消長を来すものではないと述べた。〈立証省略〉

被告株式会社訴訟代理人は「原告の各請求を棄却する」との判決を求め、原告主張の事実中

原告が係争山林(実測坪数約五千五百坪)を所有していたこと、被告株式会社の九州支店長が高山久弥であること、原告が昭和二十六年四月二十日頃近藤芳雄を現場に案内したこと、高山久弥が同年四月二十日福岡法務局八幡出張所に於て自己の為同年同月同日附売買予約を原因とする所有権移転請求権保全の仮登記を経たこと高山久弥と原告との間に売買予約が成立していなかつたこと同年同月同日原被告間に、係争山林につき原告主張の売買契約(但しその代金は百万円であつて、係争約束手形の原告への譲渡は代金支払の為になされたものではなく、代金支払にかえてなされたものである)が成立したこと、同年同月二十一日被告株式会社九州支店に於て原被告間に原告主張の契約が成立し、高山久弥が原告に係争約束手形を交付したこと(但し同人が原告にそれに裏書すべきことを約した点は否認)、被告株式会社が中峯化学工業株式会社から、代金約四十万円に相当する地下足袋ズツク等の回収に成功したこと(但しそれは原告の努力によるものではない)、被告株式会社の取締役総務部長、岡峯秀男が同年四月二十四日福岡市に来て原告と面会し、係争山林の現場を見分したこと、高山久弥が原告から係争約束手形に対する被告株式会社の裏書を要求されたが、それを履行しなかつたこと原告が同年同月二十五日高山久弥に対し、係争約束手形を交付したこと、高山久弥が原告に対し前記三通の約束手形金取立の報酬八万九千九百二十円の支払及び係争書替手形の交付をしなかつたこと、被告株式会社が同年四月二十一日原告に係争約束手形を交付したとき、中峯化学工業株式会社からその手形金の内百四万円に相当する商品の返戻をうけ、残金七十四万四千二百五十円について、係争書替手形が振出されていたこと、高山久弥が前記売買契約成立の際原告に対し係争約束手形につき右書替手形が振出されていることを告げなかつたこと、被告株式会社が原告に対し係争山林の代金百万円を現金を以て支払わず、原告が高山久弥に対して交付した原告の印鑑証明書白紙委任状登記済証等を使用して、同年四月二十四日被告株式会社の為、係争山林につき同年四月二十三日附売買を原因とする所有権移転登記を経由し、更に同年十月三十日日本商事株式会社の為同年同月同日附売買を原因とする所有権移転登記を経由したこと、高山久弥が原告に対し、右売買契約につき原告の主張するようなことを主張していること、日本商事株式会社が善意の第三者であること、高山久弥が被告株式会社の被用者であること、原告の代理人檜山雄護等が被告株式会社に対し損害金の支払を請求した昭和二十八年五月十四日附書留内容証明郵便が、翌十五日被告株式会社に到達したことはいずれも認める。原告が元八幡市に於て靴販売修理業を営んでいたが昭和十七年六月頃その営業を廃止し、終戦後係争山林に於て農業に従事していたこと、原告が右営業を再開する資金を得る為、原告の唯一の財産である係争山林を売却することを決意したこと、原告が被告株式会社を信頼したこと、原告が中峯化学工業株式会社の財産調査同株式会社に対する債権取立の為水崎幸蔵弁護士に対する訴訟手続の依頼、右株式会社に対する交渉等に私財を投じ、献身的に努力したこと、原告が中峯化学工業株式会社にかかる係争約束手形金を取立てることができなかつたこと、係争山林の昭和二十六年十月三十日当時に於ける時価格が少くとも三百万円を下らないことはいずれも知らない。その他の原告主張の事実は全部これを否認する。

係争山林の代金百万円の支払にかえて原告に譲渡された係争約束手形は、昭和二十六年四月二十一日原告が交付をうけた当時、既に不渡であつたが、原告は中峯化学工業株式会社からその手形金の回収ができなくても、異議がないことを承諾したものである。被告株式会社は昭和二十六年四月下旬、中峯化学工業株式会社から代金約四十万円に相当する商品の回収に成功したが、それは同株式会社と被告株式会社との間の直接交渉の結果獲得したものであつて、原告はその回収に何等寄与することがなかつた。

被告株式会社が原告と係争山林につき売買契約を結ぶに至つた経緯は、次の通りである。原告は昭和二十六年四月上旬から、被告株式会社九州支店に出入するようになり、被告株式会社が中峯化学工業株式会社に対する売掛代金の回収に難渋していることを知るに至つたが、高山久弥に対し

(1)  原告は元中峯化学工業株式会社に勤めていたので、その内部事情に詳しい。

(2)  原告は同株式会社に対し十数万円の負債があり、近日中にこれを返済しないときは、原告が同株式会社に担保として差入れた係争山林は、没収される破目にある。

(3)  右の急場を救う為に、原告は被告株式会社に係争山林を買つて貰いたい。但しその代金は、被告株式会社が所持する中峯化学工業株式会社振出の不渡約束手形を原告に譲渡することによつて、その支払に代えて差支ない。

(4)  原告は中峯化学工業株式会社からその約束手形金の取立ができなくても異存はなく、原告は右株式会社との従前の特殊関係から、これを有効に取立て得る方法がある。

旨を述べたので、高山久弥は被告株式会社の代理人として同年四月二十日原告との間にその主張のような売買契約(但しその代金及びその支払方法を否認することは前記の通り)を結んだのである。そして高山久弥が右契約を結ぶに際し、原告に対し係争約束手形について書替手形が振出されていたことを秘していたとしても、原告は係争約束手形により中峯化学工業株式会社からその手形金を取立て得る自信があると言い万一その手形金の取立ができなくても異存がないことを承諾して居り、被告株式会社は右契約の趣旨に従い、代金百万円の支払に代え、原告に対し係争約束手形金を交付したから、仮に原告が中峯化学工業株式会社からその手形金を取立て得なくても、被告株式会社又はその被用者高山久弥に不法行為の成立し得る余地は無い。

抗弁として、仮に原被告間に原告主張の売買契約が成立し、被告株式会社又は高山久弥に不法行為が成立したとしても、被告株式会社は昭和二十六年五月二十三日、原告と同年四月二十日当事者間に成立した前記売買契約を合意解除し、即日更めて係争山林につき次の売買契約を結んだ。

(1)  原告は被告株式会社に対し、係争山林を代金百万円で売渡す。

(2)  被告株式会社は原告に対し、右代金の内七十四万四千二百五十円の支払に代え、係争書替手形一通を、原告に裏書譲渡する。原告はその約束手形金の取立ができなくても、被告株式会社に対して異議を言わない。

(3)  被告株式会社は原告に対し、右代金の内十三万三千九百十円四十銭の支払については、原告が、訴外八幡市信用組合に負担する、これと同額の借受金の元利金(元金十二万円利息一万三千九百十円四十銭)返還債務につき、原告の為にこれを引受け、その支払に代える。

(4)  被告株式会社は原告に対し、右代金の内二万七千二百五十円については、原告が被告株式会社に対して負担する同年五月九日借受の二万五千円、同年四月二十一日借受の二千二百五十円の二口の債務と対当額につきこれを相殺する。

(5)  被告株式会社は原告が係争山林の上に存する工作物を除去したときに残代金九万四千五百八十九円六十銭を支払う。

という契約が成立し(5) 項については、

(い)  内金五万円は、被告株式会社九州支店社員松岡克己が同年五月下旬、原告に対し支払つた五万円を以てその支払に充当し

(ろ)  内金一万円は、当事者双方合意の上、被告株式会社は係争山林一部である福岡県八幡市大蔵字勝田千二百二十番地の一、山林二反三畝四歩を分筆して、同所千二百二十番地の五山林五畝十歩を代金一万円を以て原告に売戻すこととして、右内金と対当額につきこれを相殺し

(は)  残額三万四千五百八十九円六十銭は被告株式会社が同年六月七日原告に現金を以て支払つた。

そして(ろ)の五畝十歩の山林一筆は、被告株式会社からその後原告に対し所有権移転登記をなすべき旨催告したが、原告はその手続費用を送付しないので、未だその移転登記は完了していない。

従つて原告の被告株式会社に対する係争山林の代金百七十八万四千二百五十円の債権、又は原告が昭和二十六年四月二十日附売買契約により、係争山林に対する所有権を喪失したことを前提とする、被告株式会社に対する損害賠償債権は、右売買契約によりいずれも消滅したから、原告の被告株式会社に対する本訴各請求は失当である。

原告の再抗弁については、その主張事実を不知又は否認を以て争うと述べた。〈立証省略〉

理由

昭和二十六年四月二十日原告が被告会社九州支店長高山久弥との間に、原告はその所有にかゝる係争山林二筆(実測坪数約五千五百坪)を被告株式会社に売渡し、(代金の点を除く)

(一)  被告株式会社は原告に対し、その代金支払について、中峯化学工業株式会社が同年一月十六日、被告株式会社にあてて振出した、金額百七十八万四千二百五十円、満期同年三月三十一日、振出地及び支払地いずれも福岡市支払場所株式会社帝国銀行福岡支店約束手形(即ち係争約束手形)金債権を譲渡する。

(二)  原告は被告株式会社の為、中峯化学工業株式会社にあてて振出した。

(1)  金額二十五万六百五十円、満期同年五月十五日

(2)  金額二十三万五千二百円、満期同年五月十八日

(3)  金額三十七万七百五十円、満期同年六月十日

その他の手形要件は係争約束手形と同じである約束手形金の取立に協力し、原告はそれを取立てたとき、被告株式会社からその金額の二割を報酬として支払をうけるという売買契約が成立したことは被告株式会社の自白したところである。

そして成立に争のない甲第一第二号証の各記載によれば、係争山林の代金の額は百七十八万四千二百五十円であることが認められ、(但し書については後述)右認定に反する証人高山久弥の証言(第一、二回)は、当裁判所の措信しないところであり、他にこれを左右するに足りる証拠資料はない。

次に原告はいかなる構想を以て右売買契約を結んだかにつき、判断する。

証人中山寅雄(第一、二回)の証言及び原告本人尋問の結果によれば次の事実が認められる。即ち原告は昭和二十六年二月末日迄中峯化学工業株式会社に勤務していたが、昭和二十五年十月頃、同株式会社との間に係争山林を代金約二百二十万円を以て売るという契約が一旦成立した。原告は同株式会社に対し自分の債務の為係争山林を担保に入れたことはなかつた。同株式会社は一般商人から約束手形を以て商品を買入れ、他にこれを転売しながら、約束手形を不渡りにするという悪辣な方法で営業をしていたので、原告はその営業が永続きすべき見込は到底ないと判断した。同株式会社の社員で社長中峯伍伊知の秘書をしていた中山寅雄は、昭和二十六年三月頃同じく愛憎を尽かせて退社したのであるが、被告株式会社の中峯化学工業株式会社に対する売掛代金を回収する為には、原告が同株式会社の取引上の前記のような不正手段を、被告株式会社に通報することによつて、その実効を挙げることができると考え、原告にそれを進言した。原告は同年四月始めこれを高山久弥に伝えあわせて係争山林の買収を頼んだ。その結果高山久弥は同年四月上旬原告及び中山寅雄を福岡市内の料亭「末広亭」に招待し「中峯化学工業株式会社に対する債権取立の費用については、被告株式会社が幾らでも負担するから、大いにやつて貰いたい。係争山林は時価は三百万円位するかも知れないが、被告株式会社は土地売買が営業ではないのだから、二百五十万円位なら買おう」と答え、両名を激励した。

同年同月十五日頃、原告及び中山寅雄は被告株式会社九州支店に於て、高山久弥にあい、同人に中峯化学工業株式会社の不正取引に関する書類を見せたところ、同人は「これで中峯化学工業株式会社に対する債権取立はスムースにゆく」と言つて喜んだ。同年同月二十日原告は右九州支店の社員近藤芳雄及び南次男を係争山林の現場に伴い(近藤某が同日現場に赴いたことは、被告株式会社の認めるところである)、近藤芳雄は原告に対し「係争山林は時価二百五十万円の価値がある。今日被告株式会社の為移転登記をしよう」と言つたので原告は「代金の支払をうけない内はできない」と断つた。同人は「それなら売買予約による仮登記をする」と言つた(しかる事実は当日係争山林につき、原告と高山久弥との間に売買予約が成立していなかつたに拘らず、高山久弥個人名義で、売買予約を原因とする所有権移転請求権保全の仮登記がなされたことは、被告株式会社の認めるところである)。

原告はそれから福岡市の被告株式会社九州支店に戻ると、高山久弥から前記売買契約を記載した契約書を見せられた。原告はその書面上の代金額が前記代金二百五十万円とは異るので、高山久弥に問糺すると、同人は「被告株式会社の二号品-規格に外れた製品-を原告に売却させるから、代金を百七十八万四千二百五十円にした。原告に供給する二号品の数量は三百万円程度で、原告はそれによつて被告株式会社の直売店となる権利が与えられる」と言つた。なおその時原告が契約書の第二項に「但し右金額回収せる場合、壱百万円也を超過する金額は、有田盛次郎より世界長ゴム株式会社九州支店長高山久弥に支払うものとす」とあるので、その但書につき、同人に説明を求めたところ、同人は「原告には三百万円もの品物を出すのだから、原告はそれによつて相当の利益を挙げられるだろう。この土地を被告株式会社に買わせ、二号品を原告に売捌かせる為には、自分も相当本店に努力しなければならない。だから右代金と百万円との差額七十八万四千二百五十円は、自分個人に謝礼として貰いたい」と言つたので、原告は高山久弥のさような口約は右契約書に作成せられなかつたけれども、同人が後日百万円が売買代金だと食言するとは思いも及ばなかつたので、右契約を承諾した(換言すれば、当事者間には百七十八万四千二百五十円を代金として売買契約が成立し、原告は高山久弥に対し七十八万四千二百五十円を謝礼として支払うべき義務を負担した。)高山久弥は原告に対し、係争約束手形に被告株式会社の裏書をすることを約した。原告が契約書に調印を終ると、高山久弥は原告に対し、係争山林の登記済証、白紙委任状、印鑑証明書等の交付を要求し、原告が「現金の支払後でなければ」といつて断ると、同人は原告に初めて係争約束手形を示し「これは現金同様のものだ。これを渡してまずいことがあると、自分はくびになつて終うから、登記済証を預らせてくれ」と頼んだので、原告はこれを信じ、同人に対し同日自分の白紙委任状翌二十一日印鑑証明書及び係争山林の登記済証を交付した(その交付自体は被告株式会社の認めるところである。)ことが認められる。

さて原告及び中山寅雄が中峯化学工業株式会社の取引上の不正手段であつて、それによつて被告株式会社は右株式会社に対する係争約束手形金を取立て得るというのは、同株式会社が警察予備隊に納入すると称して、北海道から多量の豆を停止統制価格で買受けておき、昭和二十六年二月予期したようにその統制が撤廃されると警察予備隊に納入する必要がなくなつたことを理由に、これを高価に一般市場に於て販売し、多額の利益を挙げたということ等を指すのであるが、原告等はこれ等の事実を摘発して、右株式会社代表者中峯伍伊知を責めれば、係争約束手形金の取立は相当確実であると信じていた。しかしその取立ができない場合は原告は高山久弥に対し、それでも異存がないと承諾したことはなく、却つて原告は被告株式会社に対し、右売買契約書記載の通り百七十八万四千二百五十円の代金を請求し得られるし、被告株式会社も原告に対し当然その代金を支払うと信じていたことが認められる。以上の認定に反する部分の証人高山久弥(第一、二回)同村田亀治の各証言は、当裁判所の採用しないところである。他にこれを左右するに足りる証拠資料はない。これを要約すれば、原告は被告株式会社は係争山林の代金の支払の為に、原告に対し係争約束手形を譲渡したのであつて、その約束手形金の取立ができないときは、被告株式会社がこれを支払うべき義務があると確信していたと認めることができる。

次に被告株式会社は右売買につきいかに考えていたかを検討して見る。証人高山久弥(第一、二回)同南次男同村田亀治の各証言及び原告本人尋問の結果によれば、高山久弥が昭和二十六年四月二十一日原告に対し係争山林の代金百七十八万四千二百五十円の支払の為譲渡した係争約束手形は、当時既に不渡となつていた約束手形であつて、(この点は被告株式会社の認めるところである)、被告株式会社はその取立は相当困難であると考えていた。(被告株式会社が昭和二十六年四月二十一日原告に対し係争約束手形を交付したとき、中峯化学工業株式会社からその手形金の内百四万円に相当する商品の返戻をうけ、残額七十四万四千二百五十円について、同株式会社が係争書替手形を振出していたことは、被告株式会社の認めるところである。)被告株式会社は係争書替手形も九十九パーセント取立不能と考えていた。高山久弥は前記売買契約締結に際し、原告に対しそれ等の事実については一切告げず(この点は被告株式会社の認めるところである)、同年四月二十九日福岡市の料亭「山利」に於て初めて原告に対し右の事実を告げた。同人は係争山林の所有名義を原告から被告株式会社名義に移しておくことが先決問題であると考え、昭和二十六年四月二十日右売買契約が成立する以前、被告株式会社九州支店社員近藤芳雄及び土地家屋売買周旋業者南次男を、原告と共に八幡市なる係争山林に赴かしめた帰途、福岡法務局八幡出張所に於て、南次男をして高山久弥個人名義で同人と原告との間に全然成立もしていない同年同月同日附売買予約を原因とする所有権移転請求権保全の仮登記を経、更に南次男をして原告から交付をうけていた印鑑証明書、白紙委任状、登記済証等を使用し、同年同月二十四日同法務局出張所に於て、被告株式会社の為係争山林の所有権移転登記を経た(原告の交付した右各書面を用いて、右登記がなされたこと自体は被告株式会社の認めるところである)が、高山久弥は以上の各登記がなされたことすら遂に原告に告げず、原告は昭和二十六年九月末、今福今朝男弁護士の注意により、登記簿を閲覧して始めて、右の仮登記及び本登記のなされていることを発見した。高山久弥としては、原告が中峯化学工業株式会社から係争約束手形金の取立をなし得なくても、それは原告が右契約に於て異議がないと承諾しているところであるから、被告株式会社が不渡の係争約束手形を以て係争山林の所有権を取得しても、何等憚るところはないと考えていたことが認められる。以上の認定に反する部分の証人高山久弥(第一、二回)の各証言は当裁判所の措信しないところであり、他に右認定を左右するに足りる証拠資料はない。

被告株式会社は、原告自身当時不渡となつていた係争約束手形を以て受取人である被告株式会社の裏書なくして、中峯化学工業株式会社からその手形金を取立てることを承諾していたと主張し、証人高山久弥は、原告は中峯化学工業株式会社に勤務していたので、社長中峯伍伊知の商取引上の不正行為を摘発するという急所を握つているから被告株式会社から係争約束手形の裏書をうけることなく、これを取立て得ると言つていたと供述するけれども、その供述は、これと反対の趣旨に出てる原告本人尋問の結果に照し、たやすく措信し難いのみならず、被告株式会社が原告に対し法律上手形債権の行使に必要な正当なる所持人の資格を付与せず、換言すれば原告として法律上取立不可能な手形債権の譲渡をなし、振出人である中峯化学工業株式会社代表者個人の非違を暴くことによつて、手形金取立の目的を到達せしめるということは、法一般を貫く、信義誠実の原則に著しく違背するものであつて、到底法の認容しないところといわなければならない。況んや係争約束手形については、原告に交付せられた当時、既に中峯化学工業株式会社から係争書替手形が振出されており、その残額は被告株式会社が商品を以て回収し、その書換手形は昭和二十六年四月二十日当時被告株式会社の手中にあつたに於ておや。被告株式会社は約束手形上の債務を一部弁済し、残額につき書換手形を振出した場合、書換前の旧約束手形につきその正当なる所持人であることを証明し得ない所持人に対し、果してその債務を履行するであろうか。

以上の事実を要約するに、原告は係争約束手形によつて、中峯化学工業株式会社からその手形金の支払を請求し得るが、若しその支払を得なかつた場合は被告株式会社がその代金を支払うと信じて居たに対し、被告株式会社は当初から既にそれについては書換手形も振出されて居る関係から、法律上は勿論、実際上にも殆ど取立不能と考えていた係争約束手形を、手形債権行使に要求せられる裏書をしないで、係争山林の代金の支払にかえて譲渡したと謂うことができる。そして高山久弥が原告に対し、係争約束手形金取立不能の事情、並びに原告が中峯化学工業株式会社から係争約束手形金の支払をうけ得られないときは、被告株式会社は原告に対し、前記売買代金を支払う意思は全然なかつたに拘らず、被告株式会社にさような意思のないことを原告に告げずに、前記売買契約を締結したことは、不換紙弊を以て原告所有の係争山林を買受けそれによつて適法有効な弁済があつたと主張するに等しく、換言すれば、原告に対し自ら全然代金支払の意思なく、又原告がその支払をうける可能性は殆んどないことを知りながら、これを買受けたといわざるを得ない。その意味に於て、高山久弥は信義誠実の原則に違反して、原告にとつて契約の要素ともいうべき点につき、不利益な事情を総べて黙秘することにより、原告を欺罔し、原告からその正当な意思決定に基かずして、係争山林の所有権移転登記をうけたということができるのである。若しそれ、係争約束手形に関する上記事実を被告株式会社から告知されていたとすれば、何人がよく被告株式会社に係争山林を売渡したであろうか。その然からざることは火を見るより瞭である。そうして被告株式会社が原告に対し右の事実を告げなかつたことにつき、その責を免れることのできないことは、民法第五百七十二条第五百六十九条の法意によつても明かであるといわなければならない。しかるに被告株式会社が昭和二十六年十月三十日、日本商事株式会社の為、同年同月同日附売買を原因として、係争山林の所有権移転登記を経由したことは、被告株式会社の認めるところである。従つて原告は、右売買契約を高山久弥の詐欺に因る意思表示として、これを取消したとしても、日本商事株式会社が悪意の第三者であることの証明の困難な本件に於ては(この点は原告の自陳するところであり、同株式会社が善意の第三者であることは、被告株式会社の認めるところである)、その取消を以て同株式会社に対抗することができず、結局原告は同株式会社に対し、係争山林の返還を請求し得ないと謂わねばならぬ。してみれば、原告は前記売買契約が有効に存続することを主張して、被告株式会社に対し代金百七十八万四千二百五十円及びこれに対する遅延損害金の支払を請求し得るといわなければならない。

次に被告株式会社の抗弁につき判断する。被告株式会社が昭和二十六年五月二十三日、原告と合意の上同年四月二十日当事者間に成立した前記売買契約を解除し、即日更めて係争山林につき次の内容即ち、(1) 原告は被告株式会社に対し、係争山林を代金百万円で売渡す。(2) 被告株式会社は原告に対し、右代金の内七十四万四千二百五十円の支払に代え、係争書替手形一通を原告に裏書譲渡する。原告はその約束手形金の取立ができなくても、被告株式会社に対し異議を言わない。(3) 被告株式会社は原告に対し、右代金の内十三万三千九百十円四十銭の支払については原告が八幡市信用組合に負担する、これと同額の借受金の元利金(元金十二万円利息一万三千九百十円四十銭)返還債務につき、原告の為にこれを引受け、その支払に代える。(4) 被告株式会社は原告に対し、右代金の内二万七千二百五十円については、原告が被告株式会社に対して負担する、同年五月九日借受の二万五千円、同年四月二十一日借受の二千二百五十円の二口の債務と対当額につきこれを相殺する。(5) 被告株式会社は原告に対し原告が係争山林の上に存する工作物を除去したときに残代金九万四千五百八十九円六十銭を支払うという定めの売買契約が成立したことは、原告の自白したところである。そして被告株式会社は原告に対し、福岡県八幡市大蔵字勝田千二百二十番の一の山林の内五畝十歩の所有権移転登記が原告から手続費用の送附がない為未了である外、右売買契約上の債務を全部履行したと主張するのであるから、もしその事実が真実であるとすれば、原告の再抗弁にして採用に値しないものである限り、被告株式会社が当初の契約により、原告の係争山林に対する所有権を違法に侵害し、又は原告に対する百七十八万四千二百五十円の代金債務が残存しているということはあり得ない訳である。

そこで原告の再抗弁につき判断する。先ず右契約の各条項がいかなるものかについて考えてみよう。

前記契約第一第二項に於て、被告株式会社が原告に対し支払ふべき係争山林の代金百万円の内七十四万四千二百五十円は係争書替手形を原告に譲渡することにより、その支払に代える旨定められているが証人中山寅雄(第一回)の証言によれば、被告株式会社はその約束手形に支払保証せずとの無担保裏書をしたことが認められるものの、(それが期限後の裏書である限り、法律的に無意味であることはいう迄もない)、被告株式会社自身、その約束手形金の取立が殆ど不可能と考えていた事は前段認定の通りであり、原告がその売買代金を、前記百七十八万四千二百五十円から百万円に減額するということにつき、被告株式会社と同様な或は少くともこれに準ずべき契約締結の自由を保有し得たこと又は減額を首肯せしむるに足る何等か特段の事情があつたことは、これを認めるに足りる証拠資料がない。寧ろ原告本人尋問の結果によれば原告は高山久弥が原告に対し「係争山林の代金は現金を以て支払うが、右約束手形金の取立が先決問題であるから、これを取立ててくれ」というので、これを受取つたにすぎないことが認められる。右第二項後段は、前段判示のように、不換紙弊の受領を原告に強制したに等しく飽く迄も被告株式会社が自己の経済的優位に乗じ、その日の生活にあえぐ原告の窮迫(この点については後段に於て判示)につけこんだ条項ということができる。

次に証人水崎幸蔵の証言及びその証言によつて、その全部につき真正に成立したと認める甲第七号証の一、二の記載証人中山寅雄(第一回)及びその証言によつて真正に成立したと認める甲第三、第九号証の記載、原告本人尋問の結果及びその結果により真正に成立したと認める甲第十四号証の一、二の記載、証人高山久弥の証言(第二回)によれば、高山久弥は係争書替手形が不渡となつたので、右株式会社に対し法律上の手続によりこれを取立てようとし、同年同月二十一、二日頃偶来福した被告株式会社総務部長岡峯秀男及び原告と共に、福岡市内の弁護士水崎幸蔵方に至り、予て原告から同人の努力により判明した同株式会社の電話加入権、トラック、オート三輪車等のナンバーを知らされていたので、右株式会社に対する前記約束手形債権保全の為その電話加入権、有体動産の仮差押申請を依頼したが、その後仮差押に要する保証金は勿論、弁護士に対する手数料の支払すらせず、単に同年同月二十日附の被告株式会社代表者の資格証明書及びその登記簿謄本を交付したのみであつた。そこで原告は巳むなく被告株式会社から右約束手形を裏書譲渡をうけたことにして、同年四月三十日福岡市内の司法書士本田嘉平に右各仮差押申請書類を作成せしめ、自らその書記料千六十円を立替え支払つた。中山寅雄は同年四月二十三日頃、高山久弥から中峯化学工業株式会社の登記簿抄本の下附の申請方の依頼をうけ、旅費手続費用日当として三千円を受取り、佐賀県唐津市に赴き、即日佐賀地方法務局唐津支局からその抄本の下附をうけた。原告はその後も中峯化学工業株式会社に対し係争約束手形金の支払を請求をしていたが、社長中峯伍伊知は原告の追究を免れる為姿を晦し東京方面に潜伏しているとの情報をうけたので、高山久弥に対し自分が上京して同人に厳談する旨又原告はそれ迄に屡高山久弥に対して、係争約束手形に対する被告株式会社本店の裏書を請求していたが、同人は言を構えてその請求に応じなかつたので、原告は直接被告株式会社本店にそれを請求する旨伝えると、高山久弥は同年五月九日、原告に対し、「この上は自分の方では解決し難いから、大阪本店と中峯伍伊知とに交渉してくれ」といつて貸付金名義の下に原告に上京費用二万五千円を交付したことが認められる。右認定に反する部分の証人高山久弥(第一、二回)同岡峯秀男の各証言は、当裁判所の採用しないところである。

して見れば、第四項にうたわれた二万五千円は、被告株式会社が中峯化学工業株式会社代表者中峯伍伊知を捜策する為及び原告をして被告株式会社本店と交渉せしめる為に交付せられたもの、二千二百五十円は被告株式会社が右株式会社に対する前記手形債権保全の仮差押申請の為交付せられたものであり、いずれも被告株式会社が当然負担すべき出費であつて、これを右売買契約を結ぶに際し、原告の負担に帰せしめるが如きは沙汰の限りといわなければならぬ。

そればかりでなく、成立に争のない乙第二号証の記載証人中山寅雄の証言(第一回及びその証言)によつて真正に成立したと認める甲第三第八号証の各記載証人高山久弥の証言(第一回)及びその証言によつて真正に成立したと認める乙第四号証の記載証人有馬正一同村田亀治の各証言及び原告本人尋問の結果によれば、次の事実が認められる。即ち高山久弥は昭和二十六年四月二十四日、原告をして被告株式会社九州支店にあて、同年同月二十日、原告と被告株式会社との間に成立した前記売買契約は破棄したから、爾後当該契約は無効という趣旨の証書を差し入れしめたこと、更に高山久弥は原告から、昭和二十六年四月二十日当事者間に作成取交わされた契約書をも取戻そうと試みたが、原告が拒んだ為それを果さなかつたこと、原告は同年五月十一日及び同年同月十五日頃、被告株式会社本店に於て、前記岡峯秀男等と交渉したところ、同人は係争山林については高山久弥と交渉してくれと言つてにべもなく接渉を断つたこと、被告株式会社の取締役総務部長村田亀治は昭和二十八年二月二十六日、係争山林の売買代金の交渉の為、その大阪本店を訪れた有馬正一杉田喜一及び原告に対し、昭和二十六年五月二十三日当事者間に成立した契約書及び原告が同年六月七日被告株式会社に差入た九万四千百八十九円六十銭の領収書を見せ、「係争山林の問題については、既に解決ずみであるが、原告が被告株式会社の九州支店に屡やつて来て同支店では商売にも差支えるから、高山久弥が個人として原告に五万円を贈る。この書面を書かなければ五万円は渡せない」といい、村田亀治が起案した「領収書一金五万円也。右金額は八幡市大蔵字勝田の土地五千五百坪(係争山林をさす)の売買事件に関し、己に解決済の処、更に拙者今後の更生の為、特に頭書の金円を御恵与下され、正に領収候也、昭和二十八年二月二十六日、右有田盛次郎、世界長ゴム株式会社社長奥野松吉殿」という領収書を有馬正一に清書せしめ原告にその名下に拇印をさせ、それと引換に五万円を原告の更生資金として交付したこと、原告は同年四月二十八九日頃、福岡市内の料亭「山利」に於て、高山久弥に対し、係争約束手形に対する被告株式会社の裏書を求めたところ、同人は原告に対し「その約束手形は被告株式会社本店が裏書をするから、貸してくれ」と言つたので、原告は右九州支店に於て、同人にこれを交付したところ、同人はその後これを原告に返還しなかつたこと、又同年五月九日原告が同人に、中峯伍伊知が東京に居ることを告げて旅費二万五千円の交付をうけた際、同人は原告に対し、「先に貴方に交付しておいた被告株式会社が貴方に係争約束手形金を取立てる権限を委任する旨の委任状は返して貰いたい」と言つたので、原告は同人にその委任状を返還したが、中山寅雄はその頃既に高山久弥の態度に疑念を抱き、将来紛争が生じるかも知れないことを案じて、原告に係争約束手形及び右委任状の写を作成させておいた為、原告は幸にもそれ等を当裁判所に証拠として提出し得たことが認められる。右認定に反する部分の証人岡峯秀男の証言は当裁判所の採用しないところである。

次に第五項の内容について検討してみよう。証人吉田忠治の証言及びその証言によつて真正に成立したと認める乙第二号証の記載によれば、原告は昭和二十六年六月七日、被告株式会社にあて係争山林の売渡残代金として九万四千五百八十九円六十銭を受領した旨の領収書を発行していることが認められるけれども、原告は同日その全額の支払をうけたものではなく、その内の五万円は被告株式会社九州支店社員松岡克己が昭和二十六年五月二十三日原告に支払つたもの、内金一万円は、被告株式会社が原告から買受けた係争山林の内、八幡市大蔵字勝田千二百二十番地の五、山林五畝十歩を代金一万円を以て原告に売戻し、右内金と対当額につき相殺したもので、同年六月七日には原告は三万四千五百八十九円六十銭しか支払をうけていなかつたことは原告の自白したところであり、成立に争のない乙第六号証の一ないし四の各記載によれば、被告株式会社は昭和二十八年六月九日及び同年同月十九日の二回に亘り、原告に対し、右山林五畝十歩の原告への所有権移転登記申請を督促したところ、原告は同年七月二十五日、被告株式会社にあて、自分は右山林を有馬正一に贈与することにしたから、有馬正一の委任状を同封し、同人への移転登記手続を依頼すると申送つたが、被告株式会社としては原告から登記申請費用の送付がなかつた為、現在に至る迄有馬正一に対する右山林の所有権移転登記を完了していないことが認められる。

右契約の第三項に於て、被告株式会社が、原告の為原告が八幡市信用組合に対して負担する借受元利金十三万三千九百十円四十銭の支払債務を引受て支払うことを約し、被告会社がこれを履行したことは原告の自白したところである。

次に原告は被告株式会社の為に、債権取立に果していかなる協力をしたかについて検討してみよう。証人水崎幸蔵の証言によつて真正に成立したと認める甲第十三号証の一、二の記載証人中山寅雄(第一回)同高山久弥(第一回)の各証言、原告本人尋問の結果及びその結果により真正に成立したと認める甲第十九号証の記載によれば、次の事実が認められる。昭和二十六年四月二十四日頃高山久弥が水崎幸蔵弁護士に前記仮差押申請手続を依頼した後、原告は中山寅雄から、中峯化学工業株式会社が被告株式会社から買受けた商品を代金を支払わぬ侭、何処かへ搬出しようとしているという情報をうけたので私費を投じて中峯化学工業株式会社のトラツクの運転手木村某を買収し、同人からその商品の所在を確かめ、これを高山久弥に告げたところ、同人その情報により同年同月頃前記岡峯秀男と共に右株式会社から四十四万九千四百円に相当する地下足袋か運動靴を回収したので原告は高山久弥にその報酬を請求したところ、同人はこれを拒絶したことが認められる。右認定に反する証人高山久弥(第一回)、同岡峯秀男の各証言は当裁判所の採用しないところである。して見れば、原告は当初の報酬契約に基き、被告株式会社に対し約九万円の報酬債権を有することができるのであつて被告株式会社が原告の為に原告の八幡市信用組合に対する元利金債務合計十三万三千九百十円四十銭を立替支払い、第五項の(い)及び(は)の現金合計八万四千五百八十九円六十銭を支払つたとしても、実質的には原告をして十数万円を利得せしめたことにしかならないのである。

又原告は昭和二十六年五月二十三日被告株式会社と前記契約を結ぶ当時、いかなる状態にあつたかというに、証人中山寅雄(第一回)同高山久弥(第一回)の各証言、原告本人尋問の結果及びその結果により真正に成立したと認める甲第十八号証の記載によれば、原告は度々中峯化学工業株式会社に対し係争約束手形金の支払を請求したが、それに失敗し(その取立が法律上事実上不可能であることは、前段判示の通りである)、同株式会社からは被告株式会社の為前記四十四万九千四百円に相当する商品の回収に成功したに拘らず、被告株式会社は原告に対し、当初の契約に基く二割の報酬すら支払わなかつた為、自分の有する衣料布団毛布類を入質して辛うじて生活費を得て居たが、原告自身は一日の食料は昼にコツペパン一つという悲惨な状態にあつたこと、原告はこの間大阪市なる被告株式会社本店に赴き、その総務部長岡峯秀男と交渉しても、埓が明かなかつたのであるが、高山久弥は、原告が同人に対し係争山林の代金を請求するのを嫌い、不在を理由として面会を避けるに至つたので、原告は中山寅雄と相談の上問題の解決の為には、一種の示威運動をなし、被告株式会社の反省をなすにしかぬと考え、同年五月二十二日頃、係争山林に関する上記の経緯を畳一枚の大きさのプラカードに認め、これを掲げて被告株式会社九州支店附近を歩き廻つたところ、同支店社員松岡克己吉田忠弘等は「明日迄待つてくれ」というので、原告及び中山寅雄は再びその翌日右支店に赴くと、高山久弥は居らず、前記南次男松岡克己吉田忠弘がそこに居て、「高山久弥の留守を預つている者の身になつてくれ。一応南が立替えて出すこの五万円で、この場を納めてくれ」といつてその金を差出した。中山寅雄は元南次男の許で働いていたことがあるので、「高山久弥は留守だから、明日の事を考えるより、今日の事を考えよう」と、原告にその受領方を勧めた。原告も前記のような生活の窮迫を免れる為、これを受取ろうとしたら、吉田忠弘が、予め高山久弥が文案を作成していた前記売買契約書に原告の捺印を迫つた。原告は、その内容が飽く迄も原告の立場をふみにじるものであることを見て、一旦捺印を拒んだのであるが、吉田忠弘は「将来この書面を楯にとるような事は絶対にしない。高山支店長が帰つて来れば、話はどうにでもつくから、判を捺せ」と迫つた。原告は七十二歳になる老母、魚半という宿屋に住込女中をしていた妻、三人の子女の身の上に思いを及ぼし、その晩の食費にも事欠く始末であつたので、唯即時現金が手に入るというそれだけの理由で、これに捺印して、五万円を受取つたことが認められる。右認定に反する部分の証人高山久弥(第二回)同松岡克己の各証言は当裁判所の措信しないところである。

以上の事実によれば、高山久弥の原告に対する態度は、被告株式会社としては原告に対しては、正当に代金を支払うことをなさず、苟くも自己に不利益なことについては書類を作成せず、作成したものは原告から捲上げて、係争山林の所有権の譲渡をうける。しかもそれは予め被告株式会社に於て周到に計劃されていた案又は文書を利用し、原告の経済上の窮迫軽率ないし無智に乗ずるという態度で一貫していたことが窺知し得られるのである。

これを要するに、昭和二十六年五月二十三日当事者間に成立した前記契約は、被告株式会社がその経済上の優位のみならず、同年四月二十四日既に自己の為に、係争山林の所有権取得登記を経て終つたという法律上事実上圧倒的な優位に乗じ、原告の生活上の窮迫、法律の無智に乗じて結ばれた契約であつて、原告に対しては、僅かに二十数万円を支払い又は原告の為に第三者に対し支払つたに過ぎないに拘らず、被告株式会社がその所有権を取得した係争山林の代金は、百七十八万四千二百五十円であるから、その契約は信義誠実の原則に照し、無効であるといわなければならぬ。原告の再抗弁はその理由ありというべきであつて、被告株式会社の抗弁は排斥を免れない。

そうして、被告株式会社が商人であることは多言をまたないところであり、前記売買契約は商法第五百三条第二項により、被告株式会社の営業の為にするものと推定せられる(正確に言えば、暫定的に真実とせられる)から、それは被告株式会社の営業の為にする行為であり、従つて商行為であるといわなければならない。又前記売買代金の支払期は、前段認定の事実によれば、契約成立と同時に到来していたといゝ得るから、原告が被告株式会社に対し、前記売買代金百七十九万四千二百五十円及びこれに対する右契約成立の後である昭和二十八年五月十六日から支払ずみに至る迄、商法所定の利率の範囲内である年五分の遅延損害金の支払を求める本訴請求は、全部正当であるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条、仮執行の宣言につき同法第百九十六条第一項前段を適用し、主文の通り判決する。

(裁判官 釦鹿義明)

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